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和歌山県指定文化財 史跡 昭和33年4月1日指定
森田節斎翁墓地
所在地 粉河町荒見 所有(管理) 北 光二
(写真は記念碑です) |
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森田節斎は文化8(1811)年11月1日大和五條(現・奈良県五條市)の医師森田文庵の二男として生まれ、15才の時、京都で猪飼敬所や頼山陽に学び、後江戸(現・東京都)では昌平 で古賀洞庵の教えを受けた。
その後、43才の時から京都で塾を開き子弟の教育にあたった。吉田松陰も、その門に学んだ一人で門下には勤王の志士が多かった。
文久3(1863)年門人の乾十郎・原田亀太郎が天誅組に加わったため、節斎も幕府から追われ荒見村(現・粉河町荒見)の北長左衛門の家に身を避けることとなった。
ここで「簡塾」とよばれる塾を開き子弟の教育にあたっていたが慶応4(1868)年7月26日死去されました。
節斎の墓地は荒見地区内北家墓地の南側に設けられている。 |
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